結局は、いさかいの元は何なのだと振り返ると、あいつが、誰かが、どこかが、ほにゃららめがっ!と自分で思い、口に出す。
その時々におきるのだ。
それは結局は、「誰かに寄り掛かる生き方」なのだと、いまさらながら気がついた。
では、国を上げて、地域を上げて、個々人を上げて、「あいつのせいだ!」「あいつが悪い!」と、誰かに寄りかかって生きていくのか。
だとすれば、寄り掛かるほうも、よりかかられるほうも、お互いに悲しい話ではあるけどね。
思うに。
「助け合い・支えあい」と「寄り掛かる・寄り掛かかられる」とでは、全く真逆で、別物だ。
「自分の感受性」を殺した共依存は、相手のデメリットで自分の価値を相対的に上げる。
つまりは、ただの「もたれあい」の「もつれあい」。なんの助けにも、支えにもならない。
「自分の感受性」があっての「助け合い・支えあい」。それは確かに「力」になる。また未来につながる。
年を重ねるごとに、特にそう思うようになった。
娑婆のしがらみに流されて、自分が本来持っているはずの瑞々しい感性を失いたくない。
だから、茨木のり子さんの詩「自分の感受性ぐらい」は、蝉のジージー、ワシワシとともに、身に染み入っていくのだ。
「自分が守るべきもの」はなにか。「自分で守るべきもの」はなにか。
もう一度「自分が」、もう一度「自分で」、考えよう。
今年もまた。「あの8月」がやってくるから。
○「自分の感受性ぐらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて気難しくなってきたのを友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守ればかものよ
○「倚(よ)りかからず」 ※73歳の作品
もはやできあいの思想には倚りかかりたくない
もはやできあいの宗教には倚りかかりたくない
もはやできあいの学問には倚りかかりたくない
もはやいかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ
「茨木のり子・感動の詩」